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メーリングリスト会話集 2 |
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| (1日に50通〜60通位飛び交っている当会の メーリングリストのメールの一部を抜粋して掲載しています)
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「喋る活動写真が掛かるって話だぞ〜」
「ナニナニ活動写真が喋る?」
銭湯での会話を聞くともなく耳に入ってきた大人の会話が トーキー映画を知った最初の情報なのでした。 信濃の小さな谷間の町でしたが、この時代景気が悪くなったとはいえ近郷に散在する農家は生計を養蚕に頼り、繭玉を集荷の中心市場としての、この町は川筋では一番の繁栄をきわめていた町でもありました。 加えて大小の製糸工場に他県から大勢出稼ぎの女工さん達も街に彩りを添えていました。巷間伝わる「女工哀史」など子供心では知るよしもありませんでした。
寝食を忘れ、労苦を厭わず春繭、夏繭、秋繭と息つく間もなく育てた繭玉もお金に化ければ消費に変わるは世の常と云うものでしょう。町は贅貧取り混ぜ生活必需品すべてをまかなえる商店街も賑わいもみせ、加えて繭玉成金を当て込んでいる花街、小料理屋、曖昧や(娼婦)大人の息つく遊び場も、それなりにささやかな繁栄を謳歌していたのでした。
テレビなど夢想だもしない昭和初期一般大衆の娯楽と云えば、映画芝居に限られていました。小さな町ながら常設映画館と 映画と芝居を兼ねてる小屋二軒が娯楽の殿堂しとして君臨していました。 映画館は椅子席でしたが、芝居も掛かる小屋では、昔ながらの畳敷きの枡席でしたから履き物は下足番に預け、交換に、(い)の五番 (れ)の十九番とか、下足札を下足番から受け取り、帰りに下足札と履き物を交換するのですが、混雑しているときはたいそう時間が掛かり不便でした。 勿論冷暖房の設備などない時代でしたから、暖をとるには、布団を借りたり、懐の暖かい客は、達磨炬燵を借りたりして映画を、芝居を観ていたものでした。夏の暑さ凌ぎには扇子か団扇、汗かきかきの映画、田舎芝居見物も大変でした。 そのころの映画と云えば「地雷也」主演は目玉のまっちゃん事、尾上松五郎、歌舞伎役者上がりだそうですが大変な人気だったようです。 昭和初期の養蚕風景 蚕棚 ↓ ![]() 銭湯での喋る映画の到来はまだ先の話で、かなり以前に創られていた無声映画「忠治旅日記」主演は大河内傳次郎、(お若い会員の皆様は多分ご存じないでしょうね)大変な人気俳優でしたよ。続いて坂東妻三郎主演「雄呂血」なんか無声映画の傑作中の傑作と言われています。今でもフイルム残っていて女性活動写真弁士「沢登 翠」さんが数々の無声映画、洋の東西を問わず活弁として活躍されています。
勿論話題の映画も評判で客入りは悪く無かったそうですが、映画の評判以上に、今度の映画の弁士は誰々とか、弁士によって観客の入りも違ったそうです。記録によると千人を超す活弁士がいたそうですから。 ・・・春は春 春南方のローマンス。 活動写真の暗闇でいつしか咲いた恋の花。 東山三十六峰静かに眠るうしみつ時、突如ひびきわたる剣戟の・・・とか・・・・大まかな台本もあるそうですが、試写をを観れば台本要らず、職人的感覚でアドリブ入りの場景描写、男女の会話も声色弁舌爽やか、銀幕の世界に引きこんでいきました。 そんな活弁士をいっそう際だているのは、舞台(スクリーン)より一段低い囲いの中の楽器奏者達でした。音楽は楽士達の生演奏。楽器は、三味線、太鼓、バイオリン、アコーディオンなどさまざまでした。活動写真、活弁士 音楽士など取り混ぜて「娯楽の王様」と呼ばれるほどの人気でした。 そのような時代にあって、「活動写真が喋る」とは、子供達にもいっそうの好奇心をそそるものでした。私も例外ではありませんでした。小学校の講堂で「喋る活動写真」が映るってぞ〜 その夜、大人も子供も立錐の余地もないくらい講堂を埋め尽くしました。一段高い壇上の背後に垂らされた白幕に映画が写しだされ同時に人声と音楽が流れると、ドット歓声が講堂を揺るがせました。記憶に間違いなければ、軍艦とか兵士の行進とか記録映画に近いもので期待されていたチャンバラではないのですが、始めて音の出る、喋る映画に興奮したものでした。好奇心旺盛な子供達は壇上にかけ上がり、スクリーン幕の後ろに廻り何処から声が音が出るのか、不思議そうに確かめていたものでした。 あの頃から風雪76年余の歳月が流れ活弁偲ぶ仲間も少なくなりました。
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| 群馬 横幕周蔵 |
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あれっ あんた 誰? |
ちょっと待って・・ 今 老眼鏡かけるから |
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| 平成18年10月2日、帝国ホテル大阪で関西のお仲間たちと楽しい集いを持ちました。 |
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| パソコン画で遊ぼう |

| ●札幌大通り公園 写真一番下(黄色の部分)は毎年恒例の高校生の作った花の絨毯(今年7校だそうです) |
| 榊原ひさ |
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6月もおしまい。暑くなりました。飯沼トキです。
高野さん、河野さんのモロッコ回想、あの最後のシーン。砂漠のやける 砂の上を裸足でデートリッヒが兵隊の隊列を追う姿、今もはっきり浮かびます。何度目のトーキーでしたかしら。
映画オーケストラの少女、放映があったのは知りませんでしたが高野さんのメ−ルの御蔭で蘇った思い出、聞いてください。
昭和13年の初夏、結婚最初の映画見にと大阪朝日会館に行った時のこと、映画の途中で気が付くと舞台脇の電気掲示板に・飯沼さん受付まで・と出ています。
何事かと主人が受付へいきました。帰って言うには人違いだったよ。呼ばれていたのはあの神風号の飯沼飛行士でした。当時、
大阪朝日に所属でしたから。其の時の映画はオーケストラの 少女、私は結婚前に姉と見たのを主人をがっかりさせないようにと黙っていたのを思い出しました。 ディアナダービンとレオポルドストコフスキー。歌った歌は
ハレルヤだったかと思います。同じ時代の映画、洋画好きで本当に楽しいでしたね。未完成交響楽、嘆きの天使、会議は踊るなど等・・・ ルビさん、ご覧だったではないでしょうか・暗い時代が始っているのに知らなかったのですね。覚えているようでも、違っていることも沢山あるのでしょうね。 飯沼 トキ(90歳)
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飯沼様 懐かしい映画のおはなし、あれもこれもはっきりと目にうかびます。
モロッコのデートリヒ、あの最後の場面、そして素晴らしい足、会議は踊るの
あの音楽も、未完成交響楽 等々
トーキーが初めて入ったのは女学校の2年ぐらいだったように思います。
画面から本当に飛び出すようだと騒いだものです。キネマ旬報の双葉さんの記事もよくよみました。武蔵野館、日比谷の邦楽座、帝国劇場、ゲーリークーパー、ゲーブルどっちがすき? などと、、、わたしはクーパーのフアンでした。
あの頃読んだゲーテの「若きエルテルのなやみ」映画とともに夢多き青春のひと時でした。モンテクリスト伯(岩窟王)も胸をとどろかせて読んだものです。それから続いた激動の時代、いま司馬遼太郎の「とぶが如く」を読んでおります。 それから藤原正彦氏の「国家の品格」 「若き数学者のアメリカ」「遥かなる ケンブリッジ」 ちょっとふうがわりな人物ですが小さいとき(小学生のころ)おれは天才だと家のあちこちに書いたとゆう あっけらかんとした人柄、憎めない論説に共感をおぼえます。維新の前後に外国の人たちがびってくりした日本の教育、庶民生活の素晴らしさ、取り戻したいと思うのです。 老人のたわごと おゆるしくださいませ。 ルビ(89歳)
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すすきのと言えは札幌の歓楽街、モロッコとゆうキャバレーがあるのですか、ヒサ様のメールでおおよそわかりました。羨ましきかぎりです。モロッコで同名の映画を思い出しました。 若き日のゲイリー・クーパー、マレーネ・ディートリッヒの強烈な恋愛映画{名画とは思えませんが・・}で、
ラストシーンで 行進する兵士の隊列のクーパーの後を慕って沙漠のなか、ハイヒールを脱ぎ捨てて走って行くディートリッヒの場面が有名ですね。オーケストラの少女の父親役のアドルフ・マンジューが富豪の役で出演していますね。あの強烈な太鼓の響きを今一度聞きたいものです。 三室さま、1921年生まれのD.ダービンは健在だとおっしゃっておりましたね、それを聞いて何だかホットしました。それとマレーネとジャン・ギャバンとの話、 本当でしょうか? ジャン・ギャバンといえばなんといってもペペル・モコ{望郷} です、あの二人ではにあわないと思いませんか・・? 高野秀男 |
| 人生の大先輩飯沼さま、ルビさま、高野さまの戦前の映画談義のお仲間に入れていただきます。
★お二人の忘れえぬ映画としてマレ−ネ・ディ−トリッヒの【モロッコ】を挙げておいででした。映画評論家の長老双葉十三郎氏の解説を引用しますと、【昭和6年(1931年)2月僕は新宿武蔵野館で『モロッコ』を観た。これがマレ−ネ・ディ−トリッヒとの最初の出会いだった。やたらに感激して、雪の残った新宿の裏通りを歩きまわった。次に観たのは『嘆きの天使』だった。水着に近い短いスカ−トで黒い網タイツをはいたマレ−ネの歌う『♪浮気のロ−ラ』『♪また恋におちて』の二場面はただもう陶酔するばかりだった】とありました。
☆あの当時の洋画は、モガ、モボと言われた層に大人気でしたのですね。グレタ・ガルボのことも書いてありました。ガルボは早く引退してしまいましたが、ディ−トリッヒは、戦後も1979年まで女優を続けていました。1970年の大阪万博のとき、日本でショ−を行ったそうですね。75歳で引退。1992年パリで90歳の生涯を終わる。遺骸は空路生まれ故郷ベルリンに運ばれ、シェ−ネベルク墓地に向かう棺を乗せた車に、沿道で見送る大勢の人々は花を投げ、みるまに棺は花で覆われました。(その場面はちゃんとドキュメント映画に記録されていました) ★マレ−ネが歌い続けた歌は、自分で作詞し直した♪リリ−・マルレ−ン♪ と、♪花はどこへ行った♪の二曲だったそうです。
★映画とは番外ですが、飯沼さまが書いていらっしゃった、飯沼飛行士は、純国産飛行機【神風号】で昭和12年、東京〜ロンドン間を94時間17分で飛び世界記録を樹立したということで有名なのですね。本で読んだのですが、飯沼飛行士は昭和16年の開戦の三日後に29歳で戦死とありました。惜しい人ですね。
出身地の安曇野に【飯沼記念館】があるそうです。 みむろ |
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(い) 筍の保存法
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| (ろ) | 簡単 きゅうりのQちゃん漬け |
@ A B C D E F |
寝かせる時間はかかりますが手間は超簡単 キュウリ10本丸ごと鍋にいれ蓋をしないで2分間茹でます。 火をとめたら、そのまま12時間蓋をしないで置きます。 12時間後@とAをもう一度繰り返します。 下ごしらえの済んだキュウリを2〜3ミリの厚さの輪切りにし、 出来るだけ水気がなくなるよう手で絞り出します。 調味料を合わせます。 醤油 200cc ミリン100cc 酢 20〜30cc タカのツメ 2本 と 土ショウガ適量を刻んで入れます。 調味料を火にかけ、沸騰したらCのキュウリを入れて 2分間煮ます。 そのまま冷まして調味料も一緒にタッパーなどに移し、 上からゴマを振りかけて冷蔵庫に保管します。 |
| 木更津 平戸あきえ |
| (は) | 酢漬け黒豆 (血糖値を下げる!) |
@ A B C D |
黒豆 密閉ビンに1/3位 酢 穀物酢 米酢でOK 黒豆を水洗いし中火で空煎りする、 香りが出て表面が割崩れ始めたらOK ビンに豆をいれ酢を2/3の高さまで注ぐ 1日〜2日位で豆が酢を吸収するのでヒタヒタ程度に酢を足す (3日〜4日間) ビン一杯まで豆が膨らんだら冷暗所に一週間保存する ビンの中身をザルにあけ、酢きりをして完成。 食べ方: 朝晩の食事の前に大匙一杯(5〜10粒)食べる ゆっくりよく噛むこと |
| 札幌 榊原ヒサ |
| (に)きんかんのふっくら煮 | |
| @しわしわを寄せずにふっくら甘く煮るには、まず蒸して、 それから砂糖で煮るとふっくらと煮あがります 木更津 平戸あきえ @ ☆金柑一キロ ☆酢一合 ☆砂糖500g
☆水2カップ ☆塩小さじ1 A先ず水洗いしてからヘタを取り、竹串で
座間 園田節子十字になるように刺します。 B何回かゆでこぼし苦いのが好きなら1回です C上の材料で煮て煮汁ごと瓶に入れ保存します。 種は入ったままです。(鹿児島流です) @ 茹でる時にかなり大目にお酢を入れると後の煮汁も美味しい夏の飲み物になります。 和歌山 足立悦子 |
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| ●伊勢街道の街道沿いに山の神を祭ってありました。
包丁、魚類、チェンソー、 台所の品や山仕事に使う
道具のレプリカが飾ってありました。 「女性の方は普段は参らないものですが今日はどうぞ」
とのこと。『山ノ神』ね〜? ヘリは山岳救助用のようです。他には斧・釜・雑草狩り
に使う丸ノコのついた物等など。 傍の大木には大きく[山ノ神]と書いてありました。
堺市 土屋洋子 |
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| ●河角あき様(87歳)は長い老々介護の末、最近ご主人様を 亡くされ、その折の心境を詠まれました。 |
| ●消え行く藁芸術 |
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| 子供の頃、冬季の父親たちの仕事は藁細工でした。 |
| 木更津 平戸あきえ |
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●130年程前の渡辺崋山描く珍しいお雛様の掛け軸 (会員所蔵) |
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| ●車窓からの風景 |
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| *InternetExplorerでのみスクロールいたします。 |
| reiさんの斬新なアイデア作品です。 |
| ● 自然そのまま ビルの屋上池 中央を流れる小川はポンプ循環の雨水利用 動力は風車発電使用、屋上庭園増えました。 |
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| (木更津) 平戸あきえ 撮影 |
| ● | 庭の片隅に「泥んこレストラン」 オープン | |
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「これはアメリカのハンバーグです」 「これはケニアのココナッツ入りアイスクリームです」 「これはタイのらーめんです」 「沢山食べて下さい」 土と石ころと木の葉に花びら 材料はふんだんにあります。 二人のコックさんは真剣なお顔で料理を作っています。 豊かな創造性は尽きることなく次から次へ・・ |
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| 泉 淑子 おばあちゃん撮影 (淡路島) |
| ● 夫婦連携プレー 長崎県佐世保市 大久保洋子 | ||||||
● 鶴の北帰行
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| ●扇の舞 |
| フラッシュで作成 吟 |
| ● 85歳の選択 大川様。 会員の皆様。 今まで何でもなく出来ていた家事(戸の開け閉め、新聞とり、玄関の応対)が対応出来なくなってきました。 主人が亡くなって10年、次男(シングル)が隣に住んでくれていまして用心よし自立がよい等と言って、気分よく暮らしていましたがどうもこのままでは駄目だと痛感!!。 子供たちに誰かきてくれるか 施設のいい所はないかとワアワア言いましたらびっくりしていろいろ案を出したり、探したりしてくれまして、1月中旬東京の3箇所の介護型老人ホームを見て回りましたが、部屋がせまかったり、トイレがなかったりでこんなのならうちにいるほうがましと思いました。 ふとインターネットで探して見ようと検索してみましたら、なんと沢山出てきまして八王子にこれならと思うのが見つかり〔これも大川さんにサロンで検索を教えて頂いたお陰でございます。 (^o^)〕 早速見に行きました。 八王子市の北部で陣場山がみえ北淺川の流れが見え風光明美、ロビーも食堂もきれいで天井も高くホテル並で、ール始め施設も整い広い土地で隣接してエンジェル病院〔慶応系〕があります。スタッフもいい方ばかりですっかり気にいりました。10室位空室がありましたので、入居申請をしました。 いろいろ入居条件とゆうのがあり3番のマンションライフの出来る健常者にひっかかりました。 近頃腰痛がひどく股関節も痛く歩くのが困難になってきています。いざ八王子に行くとなると60年も住んでいた世田谷に愛着があり隣近所の奥様に親切にされるとやはりここにいたいと思い、孫夫婦に高いお金をだしてそんな所へ行かなくても今の家をもう少し改造して、私たちが一緒に住んであげるヘルパーさんをうまく使えば私たちだって出来ますといわれればそれもいいかなーと思います。 すぐにこの家を処分する必要はないが結局は空家のままにしておくわけにはゆかないので処分するとなると又抵抗があります。 3月になって八王子から「介護1」の人まで受け入れる事になりましたからどうぞとゆう通知がきました。 迷いに迷いました。 いろいろ考えた挙句結婚して主人を支え、子供を育て、義母を介護し、主人を見送りと家族のために過ごしてきましたからこれからの第3の人生は自分のために生きましょう、出来るだけ健康に留意し趣味を生かして楽しく過ごしたいと思いました。 中の方たちとうまくやっていけるかこの選択がよかったかどうかわかりませんが八王子にゆくことにしました。 近頃このようなホーム(グランドホームとゆうそうです)が沢山出来てきました。私は考えるのが遅すぎました。 吉岡 恒子
たくさんの反響のメールがあり線友の大切さ、メールの必用さを痛感しました。 ホームの中と外とのメールはますます増え、吉岡さんは「八王子便り」としてこれからホーム生活の報告を開始して下さるそうです。 大川加世子
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| ●石垣島の美しい海に散骨 四年前に亡くなった主人(80歳)を四月七日に石垣島の海に散骨してきました。 「葬送の自由を進める会」のお世話でチヤーターされた船に、息子二人、長男の嫁、私の四人が乗り、石垣島より30分の沖に出て、まづお花だけ(茎は持ちかえる)を流し、そのあと水溶性の紙に包んだ30包みのお骨をながしました。 その紙はアッというまに溶け、白いお骨(米粒大より小さく)が、あの紺碧の海に浮かんで流れ、そこだけ水色の帯となり、息をのむおもいで「ア、ア、美しい」と皆でみとれて仕舞いました。たぶん海底はサンゴ礁でしょうし熱帯魚の舞い踊る竜宮城に到着することでしょう。 子供達とも「よかったナア」と何度も何度も喜び合い私達の手で心からの弔いをしたように一生残る思い出となりました。 「私もこの地点で・・」と子供にたのみました。 感動、感動の時間でした。 鈴木 恵美子 |
| ●8月15日終戦までの旧満州での子供の頃の生活、 |
| 父が満州の専門学校を卒業して満州鉄道に入社しましたので、私は満州生まれの満州育ちです。父の転勤に伴って安東・ハルピン・牡丹江・奉天(今の瀋陽)・吉林と移り吉林で終戦。私の女学校1年の年でした。 牡丹江では「ペチカ」で暖をとっておりました。幾部屋かの中心の柱の部分が床から天井まで半円に囲まれストーブの焚口がその柱に有り石炭をくべておりました。私の尋常小学校1年の時ですので、余り記憶にありません。
奉天では小学校2年から5年生まで住んで居りました。ここの社宅は集中暖房方式と言うのでしょうか、点在する社宅の中の一軒で常に各家庭の暖房を配る為に働いて居る方がおられました。早朝6時頃より。ゴトン・ゴトンと音がしだしてスチームに熱い蒸気が通るのです。各家庭では何もしなくても部屋部屋が暖かくなり(各部屋に夫々スチームが備えられています) 北海道の家のように2重窓でレンガ造りの家です。 雪は殆ど降りません。気温はマイナス40度〜マイナス20度ぐらいでしょうか。完全防備で外出。外ではまつ毛、男の方のひげも、はく息で白く凍ります。炊事場は都市ガス・水道・風呂は石炭で沸かします。外出はシューバーを着て皮の手袋、中に毛があります。靴も中に毛があります。帽子も頭の部分は毛皮で顔の部分は布が張ってあります。
奉天雪見尋常高等小学校から相撲の興行を見に行ったり、サーカス、映画を見に行きました。映画は「風の又三郎」が記憶に残っております。年1回は遠足に北陵や東陵へ(中国の故宮です)弁当・おやつをリユックに詰めて出かけ、これも思い出の一こまです。
春の黄砂は凄いものです、外で遊んでおりましたら突然、北北東?の空が灰色となり風が吹き嵐のようになり、砂が叩きつけるように降ってくるのです、家に慌てて逃げ帰りました。一週間ぐらいは戸締りをしても家の中はざらざら母は掃除に追われていました。
町は治安も良く安心して一人で歩けました。町の「千代田公園」に木立もあり鉄棒・ジャングルジムなどが有りましたし熊が檻に居ました。
日本の各地から来られた人々で、言葉は標準語。大陸に住むからか皆おおらかで屈託のない人ばかりでした。
小学5年の夏休みには戦争のお役にたつ様にと工場に手伝いに行きました。
小学6年より吉林に転校。奉天より小さい町でしたので、満鉄社宅以外では中国の人達も近くに住み女学校の同じクラスに中国の方が3人居られました。ここは近くに山も有り、松花江が町はずれに有り、川幅広く水量もかなりで、とうとうと流れておりました。
中国人男性は冬は綿入れの上下。帽子は毛皮で耳のところも隠せ顎で合わせるようになっていました。お年寄りの夫人にはまだ纏足(テンソク)の人も見受けられました。
女学校に入りましたが、上級生は学徒動員で居らず、1年生がヒマを植えたり、防空壕を掘ったりして、勉強は殆どして居りませんでした。
夏休み8月15日、学校に突然召集が掛かり、平和な暮らしにピリオドを打たれ、
その日を境に大きく逆境の日々と変わりました。 |
| 山口県 佐久間瑠美子 |
| ● jijibabaの皆さん |
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「悪性リンパ腫」の診断を受けて入院したのは2年前の今日、7月15日でした。口の中全体が炎症をおこして腫れ上がり、食事もとれない状態で、「癌」の宣告を受けた入院当時の心理状態は今考えるとまさに異常そのものでした。 この間、入院中に皆さんから頂いた心温まる励ましのメールでどれだけ心の安らぎを得たことか。そして、このことが治療の効果を一層促進させたものと信じております。このご恩は終生忘れることが出来ません。 皆さんのメールは大切に保存させて頂いたおります。また、退院後も、何かにつけて温かいお言葉を頂いております。改めて御礼申しあげます。 今は、大川サロンやメールを通して皆さんとおつきあい頂きながら楽しい日々を送らせて頂いております。 若い頃良く口にした、ある有名な人の言葉に「瞬間こそ永遠なれ 汝はかくもうるわしい」という言葉があります。 2年目からは再発可能性30パーセントと言われております。私には、暑さを嘆く時間はありません。いつ再発し命の灯火が消えようとも悔いることのないよう充実した美しいその時、その時を精一杯過ごして行こうと決心しております。皆さん、今後ともよろしくお願いします。 思わず長文になりました。平にご容赦を。 富田禎哉 ● 富田様 あれから2年すぎましたか・・・ 日に日にお元気になられますのを嬉しく拝見しております。 退院なさいました頃の「病後のお疲れ」は今は全くお見受けできません、愉しそうにパソコンで遊んでいらっしゃるご様子からは、かっての病名は浮かんできません。 これからも、皆で一緒に元気に生きてゆきましょうね。 仲間ですもの!!、線友ですもの!! 大川加世子 ![]() 今年「喜寿の祝い」は南アフリカ、ジンバブエのビクトリアフォールズで、しました。 私を囲んで「誕生祝」の踊りを舞ってくれました。 ますますお元気、富田さん!! |
| ●音訳ボランティアについて | |
| 八王子の山田昭和です。 明珍様、音訳ボランティア合格おめでとうございます。 音訳講習に関する数々のメールを拝見しました、神経をすり減らす様なご努力により、私ども視覚障害者の為にご苦労されているのを始めて知りました、申し訳無くて頑張ってくださいとメールも出来ませんでした。 今日はおめでとうと申し上げてよいのか、有難うございますと申し上げたらよいのか、嬉しくて感謝に絶えません。 日本に点字図書館が100ほどありますが私が主に利用させていただいているのは新宿にある日本点字図書館です。 ここには点字図書のほか最近は点字の読めない中高齢の中途失明者が多いのでカセットテープやデージー図書など録音図書が44万巻ほどあるそうです。 これらの素晴らしい朗読は、全国のボランティアの皆様が たいへんな思いで作られた汗の結晶であります。 これからは、一層感謝しながら聞かせていただかなければと思っています。 明珍様の録音図書が聞ける日を楽しみにしております。 ありがとうございました。 山田昭和(全盲) 平成13年度視覚障害者実態調査 総数。30万1千人。 交通事故。6千人。 労働災害。1万人。 その他の事故。1万3千人。 戦傷病、戦災。4千人。 感染症。3千人。 中毒性疾患。2千人。 その他の疾患。7万2千人。 |
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| おしゃれ! お婆ちゃんだって |
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| 塩沢一枝 |
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